カテゴリー「JSB」の3件の記事

2007/10/08

ノリック 阿部典史選手のご冥福をお祈りいたします

今朝、目が覚めると友人から携帯にMailが入っていた。寝ぼけマナコで開いてみると『ノリックが死んだ』の文字が。

一瞬で眠気は吹っ飛び、飛び起きた。

死んだってなんで? 昨日レースあったか? またテストでの事故か? ついこのあいだ沼田選手の事があったばかりだってのに…。混乱しながら何かの間違いであることを祈りつつ新聞を開くと、そこには無情にもそれが事実であることを示す記事が載っていた。

「伝説のライダー」阿部典史さんが事故死 川崎
2007年10月08日00時07分

 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。

 川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイ(500cc)と衝突した。千野さんは「道を間違えたので戻ろうとした」と話しているという。現場はUターン禁止だった。

  ◇

 〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、阿部さんは東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。

asahi.com

そんな馬鹿な。

レースでもテストでもない、一般公道での事故死だなんて。

もちろん、レースやテストでの事故なら納得できるという訳ではないが、まさかこんな事故だったとは。事故については、これ以上の詳細がわからないのでここではあえて言及しない。でもやっぱり、公道でのバイク走行って危ないのかな、なんてぼんやり考えてしまった。

<追記>
いろいろ情報をたどっていくと、事故を起こしたトラックは2車線の歩道側からいきなりUターンをしようとしたらしい。こんな馬鹿な事があるか。こんな運転されたらいくらバイクが安全運転してたってどうしようもない。そもそもUターン禁止の道路なのだから、この運転手には法にのっとって厳罰を処してもらいたい。気分的には危険運転致死傷罪を適用してもらいたいくらいだ(法的に無理だけれど)。
<追記ここまで>

ノリックについては以前、このBlogで少しキツい物言いを書いた事がある。それでも、かつてドゥーハンやシュワンツの前を、長髪をなびかせて走った姿を記憶している者として、いつかまた、あの『意識のほうがマシンより先行する選ばれしGPライダー 世界チャンピオンの告白 富樫ヨーコ)』走りを、世界の頂点を極める舞台で見られると信じていた。こんな形で終わりだなんて、ファンは元より、なにより本人が無念でしかたないだろう。

ノリック、魅了してくれた走りの数々をありがとう。ご冥福をお祈りいたします。

ホントにこんな悲しいニュースは、これっきりにしてくれ。

ノリックWGPデビューレース、94年の鈴鹿。

Homage to Norick Abe
Motogp.comによる阿部典史追悼ビデオ

個人的に、この時のカラーリングが一番好きだ
Norick3

<追記>
ノリックのOfficial Web Siteを見て、9月26日に奥野正雄選手が永眠されたことを知りました。ご冥福をお祈りいたします。

<2008年2月22日追記>
こちら→の欄の、『Nais Buks〜おすすめの本』にある、『RIDING SPORT (ライディングスポーツ) 2007年 12月号 [雑誌]』に、阿部選手の追悼記事が掲載されています。未読の方はぜひご覧になってください。

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2007/09/05

沼田憲保選手のご冥福をお祈りいたします

二輪レーサー:沼田憲保さんが練習走行中に事故死 岡山

 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、オートバイの練習走行をしていた千葉県流山市松ケ丘4、二輪レーサー、沼田憲保さん(41)が、ヘアピンカーブを曲がりきれずコース脇のタイヤを積み上げたクッションに衝突し、胸などを強く打って死亡した。

 沼田さんは95、96年の全日本選手権GP250のチャンピオン。97、98年には世界選手権GP250に参戦するなど、日本を代表するレーサーとして知られた。【石戸諭】

毎日新聞 2007年9月4日 20時35分

この記事を見たとき、正直我が眼を疑った。

記事にもあるように、沼田選手は二年連続の元全日本250クラスチャンピオンであり、世界GP参戦も経験している実力派ベテランライダーなのだ。そんな人が、レースではなく練習走行中に亡くなるなんて。もちろん練習中であってもレーシングスピードで走る以上、危険と隣り合わせであることには変わりはない。それでもにわかには信じられなかった。

沼田選手といえば思い出すのは、ライスポか何かに掲載されていたインタビュー記事だ。沼田選手はマシンを理解する能力に優れていると評判だったが、それは、いつもサーキット走行を行った後、セッティングデータや気象データと一緒に、その時の走行状況、マシンの挙動がどうだったかなどを文章にして克明にノートに記していたからだという。もともとはメカニックに正確に自分のマシンの状態を伝えるための言語化訓練だったらしい。「あそこの出口でアクセルをガバっとあけたらリアがザーッと滑って」みたいな擬音で説明してもダメで「出口から何mの辺りで、ギアと回転数がいくつのときにアクセルをこれだけあけたらリアがこれだけ滑った」という具合に、起こった事象を具体的かつ正確に述べるように心がけていたそうだ。

それだけに、セッティングに関する言葉については鋭い感覚を持っていたようで、世界GPに参戦した時、普段日本のサーキットで普通に使っていたとあるカタカナ用語を英語だろうと使ってみたら、ヨーロッパのメカニックには全然理解してもらえず、後で『その症状は○○というんだ』と教えてもらった、というようなことを述べていた。いかにも沼田選手らしいエピソードだと思った。

95、96年当時の全日本250クラスは、HONDA、YAMAHA、SUZUKIのワークスが参戦し、ライダー層も厚い激戦区だった。その中で、決して戦闘力が高いとはいえないSUZUKI RGV-Γが二年連続のチャンピオンマシンに輝いたのは、そんな努力に支えられた沼田選手の功績によるところが大きい。また、スポット参戦した96年の日本GPでは二位表彰台を獲得している。

しかし、念願叶って参戦した世界GPでは、当初こそSUZUKIの世界GP250クラス復帰を歓迎する各国マスコミやファンに注目されたが、マシンの性能差は全日本の比ではなく(余談だが、そのころ全日本のスズキワークスでV-Γを走らせていた亀谷選手は、あるレースで道を譲ってくれた周回遅れの市販RSをメインストレートで抜こうとして抜けなかったそうで、市販車のストレート加速に勝てないワークスマシンにショックを受けたそうだ。)、頼みのスズキからもこれと言ったサポートは受けられず、慣れない海外のサーキットという事もあってか、目立った成績を残せないまま撤退した。年齢的にも脂ののった時期だったので、さぞかし無念だったろう。

ここ最近、チェコでの関口選手や、 SUGOでの奥野選手と、大きめの事故が続いている。サーキットで限界まで攻めて走るプロフェッショナルライダーの場合、事故は避けられない物ではあるが、今後可能な限りこのような悲劇を起こさないですむように、関係各所には今回の沼田選手の事故を徹底的に調査してもらいたい。

沼田憲保選手のご冥福をお祈りいたします。

<2008年2月22日追記>
こちら→の欄の、『Nais Buks〜おすすめの本』にある、『RIDING SPORT (ライディングスポーツ) 2007年 11月号 [雑誌]』に、沼田選手の追悼記事が掲載されています。未読の方はぜひご覧になってください。

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2005/04/01

復活なるか

WSBの第一戦カタールのレースを観た。
結果はすでにRIDING SPORT誌やCYCLE SOUNDS誌で知っていて、第二ヒートでデビューウィンしたSuzukiの加賀山選手の走りを観たかったのだ。
しかし、私にとっては、実際のレース映像では加賀山選手よりも目立つ選手がいた。MotoGPからWSBに今年からコンバートした阿部ノリック選手だ。
実は、事前に聞いていた結果から、あまり阿部選手には期待していなかったのだ。
第一ヒートが10位、第二ヒートが7位。
オイオイ、MotoGPから来たってことで、期待されてたんじゃなかったのかよ。まぁ、もう阿部選手はライダーとしての旬が過ぎてしまったんだなぁ、やっぱ4stじゃダメなんだねぇ。なーんて失礼にも思っていたのだ。

失礼ついでに言わせてもらうと、私はここ数年、中でも最高峰クラスがMotoGPになってからの阿部選手には落胆していた。特に2004年冒頭に、一年間実戦を離れ、テストライダーとして過ごしていた03年を振り返ったインタビュー記事を読んだ時、この人はもうダメだろうと心底思った。そこにはこんなコメントがあったのだ。

「モチベーションを保つ為に、自分の出ていないMotoGPのレースは観なかった。」

そんな理由かよ!プロだったらレース観ててもモチベーションくらい保てよ!それでなくても技術進歩の著しいMotoGPなのだ。一年もレースの情報を入れなかったら、その後復帰できても困るだろう位のことは素人でも判る。

かつて500クラスで93年にチャンピオンをとったケビン・シュワンツは『125のレースからでも学ぶ事がある』と語っていた。実際、彼はある年の鈴鹿のレースで、それまで500では絶対に通らなかったラインで前車をパスした125ライダーをみて、その後の自分のレースでそれを試して勝った事があるそうだ。
またWGP125クラスで95、96年と二年連続チャンピオンをとった青木治親選手も、125での快進撃の影に、予選落ちしたレースを観戦した事を上げている。

阿部選手はまたこうも言っていた。

「テストライダーなのに、GPライダーとして遠慮して扱われて、あまりテスト走行はしなかった。」

03年、テストライダーとして実戦を離れる、と聞いた時、きっとこれがラストチャンスだ、と思った。
もともと阿部選手はマシンのセッティングはうまくないようだ。彼のライスポのコラムをみると、いつも「あまりセットアップはうまくいかなかったけれど、でも***だから気合いをいれた」みたいなコメントばかりだった。M・ドゥーハンの『阿部は自分が何故速いのか、理解していない』というコメントも有名だ。
そんな彼が、じっくりたっぷりとマシンと向き合う機会を得られたのだ。プロトンで散々苦労したおかげで、スズキに乗ってすぐにチャンピオンをとったケ二ーJr選手や、ブリジストンで散々タイヤテストをやったおかげで、三気筒プロトンをフロントローに持って行った青木宣篤選手みたいになれるだろう、と思っていた。
それなのに、なぜそんな貴重な機会を生かさなかったのだろう。無理矢理にでも自分からテストの申し入れをすれば良かったのに。

まぁ、素人の外野がとやかくいうのは簡単で、実際にはいろいろ問題もあったのだろうが、私のイヤな予想通り、MotoGPに復帰した2004年は当人にとっても散々な結果だったようだ。

WSBに参戦と聞いた時も、きっと大して活躍できないのではないかと思っていた。
だって、ずっと純レーサーでレースをしていた人なのだ。8耐に出た訳でもない、全日本SBもちょっとしか出ていない(しかも遥か昔)。そんなのが急にプロダクションレースにでても、成績不振をマシンのせいにして終わっちゃうんじゃないの? と思っていたのだった。

と、ここまで阿部ノリックファンから猛烈な抗議が来そうな事をダラダラ書いてきたが、実際にレースで走っている阿部選手を観てみると、予想以上に乗れているようにみえた。確かに結果は残念だったが、マシントラブルもあったし、今回は仕方なかったと思う。たぶん、本人も、久しぶりにまともなレースが出来たようにかんじているのではないだろうか?
こうなると、ちょっとまた希望が見えて来た。
かつて、やはりWGPからSBに活動の場を移した伊藤選手が、
「SBではマシンのセッティングの幅が狭い分、自分が乗り方を工夫しないといけない。GPを戦っていた時より今の方がバイクに対する理解度は高いし、だからこそGPにもどりたい。」
みたいな事を言っていたように記憶している。

阿部選手も、もともと才能はあるんだから、WSBを戦って行く中で、伊藤選手のような感覚をつかんで、今度はちゃんとセッティングも判るライダーになってまた来年、MotoGPにもどれたら良いなぁ、なんてレースを観ながら思っていた。

もちろん2005年WSBチャンピオンとしてね(^^)。

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